6月22日に開催の、第二回池田亀鑑賞授賞式および記念講演会についてブログにUPしようと思ったけれど、
バタバタしていてほとんど写真もとれずじまいだったから、関心のある方は、
選考委員長の
伊藤鉄也先生のブログを是非ご覧ください。
6月22日に開催の、第二回池田亀鑑賞授賞式および記念講演会についてブログにUPしようと思ったけれど、
バタバタしていてほとんど写真もとれずじまいだったから、関心のある方は、
選考委員長の
伊藤鉄也先生のブログを是非ご覧ください。
きのうは、第一回池田亀鑑賞授賞式と記念講演会で終日過ごす。
池田亀鑑文学碑を守る会の加藤和輝会長の開会挨拶は、池田亀鑑の随筆集『花を折る』の一文から始められた。繙けば次のように書いてある。
岡山驛を出た伯備線の列車が、高梁川に沿うて北上し、中國山脈をこえて鳥取縣にはいつて最初の驛、そこでおりて、また小さな谷川を一里ばかりさかのぼると、三方山にかこまれた小さな部落がある。そこは、わたくしの生涯わすれることのできない、なつかしいふるさとである。山には早くから雪がくる。谷間の正月は、わたくしにとつては、一つの藝術であり、そして哲學である。わたくしは、その中に少年の日の詩心をやしなひ、正義や倫理の芽生えをつちかつてきた。
会場の日南町総合文化センター・多目的ホールは、約100名の参加者で「もっと知りたい」という熱気が漂っていました。
第一回池田亀鑑賞の選考委員を務められた5名全員出席していただきました。
【選考委員】
伊井春樹(阪急文化財団逸翁美術館館長)
池田研二(池田亀鑑子息・元東海大学教授)
伊藤鉄也(国文学研究資料館教授)
小川陽子(松江工業高等専門学校講師)
妹尾 好信(広島大学大学院教授)
( 五十音順・敬称略)
そして、賞状と賞金の授与式へ。
第一回池田亀鑑賞の受賞者は杉田昌彦氏。作品は『宣長の源氏学』。
この後は、受賞者・杉田昌彦先生の「本居宣長と『源氏物語』」と題しての記念講演。
先生のお話で印象的だったのは、
「昔は和歌、今メール。人はなぜ物語を創作し享受するのか。宣長の『紫文要領』における『源氏物語』論もまた、和歌の場合と同様、物語を創作し享受することの意味を、「物のあわれを知る」説に立脚した人間の感情の浄化の精神構造を考えることによって、明らかにしようとしたものだった」
というお話し。気分転換に小説を繙くわたしの気分にピッタリだった。
先生のお話で、とりあえず『紫文要領』を読み直そうと思う。
少しの休憩時間に書籍コーナーもにぎわいました。
池田亀鑑賞選考委員長・伊井春樹先生は、「池田亀鑑による日本古典文学の世界」と題してのご講演。
「昭和の藤原定家」たるゆえんについてこもごも語られて、池田亀鑑の業績がじっくり伝わってきました。
そして、池田亀鑑ご子息の池田研二先生の演題は、「父の思い出あれこれ」。
池田亀鑑が生前NHKのラジオ番組で、高校生向け古典講座を行っていたときの肉声を録音テープで流されて、とてもリアルでした。
また、父は、平和主義者だったというお話しも印象的でした。
池田亀鑑のご子息でご存命なのは、研二先生と妹さんだけとのこと。
「東京の自宅には、池田亀鑑の蔵書もたくさんあるので、必要なら日南町図書館に寄贈しますよ」ともおっしゃっていただきました。ありがたいことです。
これからもいっぱいお話しを聞かせていただけるものと思います。
会終了後に、池田亀鑑文学碑を守る会の世話人とご来町いただいたみなさんと記念撮影。
その後、旧石見東小学校の池田亀鑑文学碑の前でも、受賞者と選考委員のみなさんで記念撮影。
この日の様子は、写真向かっていちばん右に立っておられる伊藤鉄也先生のブログにも詳しくUPされていますよ。
きょう11日の池田亀鑑文学碑には、春にはまだ早いぞと雪が舞っていました。
池田亀鑑生誕の地で、第1回池田亀鑑賞の授賞式と記念講演会が開かれます。
町内外から多くの参加者があることを期待しています。
詳しい日程等は、日南町ホームページこちらhttp://www.town.nichinan.lg.jp/system/site/upload/live/1542/atc_1330593984.pdf
きょうは、『源氏物語』研究者の池田亀鑑の誕生日。
池田亀鑑は、1896年(明治29年)12月9日に鳥取県日野郡日南町神戸上で生まれた。
今年は、東日本大震災で宮沢賢治のことがいろいろ取り上げられたけれど、彼も同い年だったことは、これまでなんとも気づかなかった。賢治は、昭和8年の三陸大津波の年に夭折している。
わたしの家からすぐ近くなので、雪の「池田亀鑑文学碑」に向かう。池田亀鑑は生前ふるさとについての思いを述べていられるが、「花を折る」から紹介する。
池田亀鑑 随筆集「花を折る」(中央公論社刊・昭和三十四年)より
私のふるさと
岡山驛を出た伯備線の列車が、高梁川に沿うて北上し、中國山脈をこえて鳥取縣にはいつて最初の驛、そこでおりて、また小さな谷川を一里ばかりさかのぼると、三方山にかこまれた小さな部落がある。そこは、わたくしの生涯わすれることのできない、なつかしいふるさとである。この平和な谷間には、西日がおちてから、長い薄明のたそがれがつづいた。濃い紫、深い青、その夕靄の中に、少年たちのたのしい夢があつた。山には早くから雪がくる。爐のほとりで、吹雪の夜の行きだふれの話や、雪女の話しをきいた。正月備中からやつてくる獅子舞のグロテスクな恰好が、たまらなく郷愁をさそふ。「娘も先月嫁入り申し候、取入れも相すみ、これより當分冬ごもりに候」と昔なじみの友だちから便りがあつた。今夜はあの平和な谷間には粉雪がしんしんとまつてゐるであらうか、それとも青い星が一つ、お伽話のやうに、きらきらとまたたいてゐるであらうか。
(BK放送二五・十二)( BK・二六・一)
谷間の正月
わたくしは中國山脈の中の小さな部落で大きくなつた。その村は、日野川の一支流が、備中と伯耆との國境を發して、細い谷川をなしてゐる山の中であつた。神代の昔、ヤマタのオロチが住んでゐたといふところも、そう遠くはない。三方に山があつて、朝日はおそくのぼり、夕日は早くおちて、谷間には薄明の時間が長い。紫色に淀む靄の中に點々と明滅する灯は、わたくしの思い出を美しいものにしてくれる。
何しろ、郵便屋さんが、二里半ばかり離れた町から、峠をこえてやつてくる、それでも大雪でもふると、三日位はすがたを見せない、といつた山奥なので、わたくしたちは、谷間だけの生活を築き、そこに生きる意味を見出すよりほかはない。
さういふ谷間の正月は、わたくしにとつては、一つの藝術であり、そして哲學である。わたくしは、その中に少年の日の詩心をやしなひ、正義や倫理の芽生えをつちかつてきた。
この文学碑のことについては、「もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語第一集」に詳しい。
池田亀鑑文学碑が建つ旧石見東小学校は、老朽化のため解体されることになっており、過日、不用品市も行われた。
6年生教室には、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が掲示してあったが、それは、私が小学校6年生のときのままであったのがうれしかった。
体育館の肋木(ろくぼく)は、その昔むかし、うちのおじいさんが大工仕事で作ったとか…。
或る知人から届いた手紙は、「もっと知りたい池田亀鑑と『源氏物語』」の感想文だった。
この書籍は、今年5月末に「新典社」から発行されたもので、私もメンバーの一人である「池田亀鑑文学碑を守る会」は、日南町内外で250部の取り扱いをした。
以下ご本人のご承諾の下に紹介することで、記録に残しておくことにした。
久代安敏 様
「池田亀鑑と源氏物語」、あれからすぐ読みました。かなり専門的な話もありましたが、それぞれに面白く、かつ内容も充実し、いっきに読みました。
亀鑑の名は「源氏」の研究家として若い時から知っていました。しかし、溝口の人と思い、また「源氏」の何を研究したのか知りませんでした。この書を読んで初めて了解しました。郷土の偉人、日本最大の古典「源氏」の基礎的研究を大きく前進させたことがよくわかりました。この仕事に家族をはじめ多くの協力者があったことを知り、感動しました。
とくに面白かったのは田坂憲二氏「『校異源氏物語』成立前後のこと」です。刊行前後の様子は、ひとつのドラマのように感じました。このような内容・文章は、ほかのところでは読めないと思います。
対談の室伏さんと伊藤さんの論考、「源氏」の写本研究の歴史・経過がよくわかり、参考になりました。実は室伏さんの名は、岩波書店「新日本古典文学大系」の「源氏物語」(全5巻)の校注者のひとりであり、とくに写本研究に詳しいお方だと知っていました。実は小生鳥取大学から国学院大に変わったとき、氏は大学院で学んでおられたのではないか、同窓の方です。伊藤氏はうんと若く氏も同窓です。両氏のような研究者を同窓に持つことに、誇りを感じたところです。
講演や論考、連載、コラムなどそれぞれに感銘を受けました。亀鑑の回想「花を折る」、全文を読みたく思いました。
地元の原豊二氏、彼が米子高専に来たとき小生も勤めており彼の研究室で話したことがあります。「源氏」研究とともに地元の文化研究に精力的に取り組んでおり、期待しているところです。
それぞれの論文の脚注が参考になります。二人の対談の脚注のなかに、藤井貞和と父親・貞文氏の名がありました。貞文氏は国学院で担任でした。明治維新史の講義を聞き、江戸めぐりを指導してくれました。我々はかげで「ていぶんさん」と呼んでいました。「貞文さ」んには小さい息子がいるという者がいました。この子が長じて東大を出て、「源氏」の大家になったことに時の流れを感じます。昨年の暮れ、氏の「日本語と時間」(岩波新書)を読み、源氏など原文を引用した緻密な論理展開に学問の厳しさを痛感しました。今回も若い時の、東京でのひと駒を思い出しました。
続巻を期待します。
2011年11月
鳥取県西伯郡南部町 宮倉 博
1874年創業のドイツ・フッペル社のピアノのことについては、いっぱい語られ、現存するそれぞれの場所でコンサートも行われてきた。
この写真は、去る8月21日に行われた「フッペル平和祈念コンサート」の第二部で上演した演劇『音の階に生かされて、八月』の一場面であり、舞台上に置かれたビアノは、もちろんフッペル(HUPFER)社だ。
わたしは、星野ヒカル子というペンネームでこの戯曲を書いた。稽古の期間は約1ヶ月という短期間だったので、参加できる子どもたちや大人をあらかじめ決めての「あて書き」だった。
演劇は、聖なる一回性といわれるので、劇場に足を運んだ方でないと、その機微は伝わらない。やがて、DVDにもなるのだけれど、再演して当日来られなかった人にも観ていただきたいと考えてはいる。
この舞台は、現在の日南小学校に統合される3年前の日野上小学校体育館での物語りである。フッペルピアノは、現在日南町総合文化センター・さつきホールのホワイエに置かれているが、3年前まで日野上小学校の体育館に置かれていた。
30分のショートドラマの予定が、50分の上演時間となった。
最後に歌った「八月の青空」という曲は、歌い続けたいと思う。
当日のパンフレットで、コンサート全体の雰囲気の一部が伝わるカも知れない。
キャストや「八月の青空」の詞も掲載されている。⇒2011フッペル平和祈念コンサートプログラムPDF
一年の中で八月は、戦争と平和についていちばん考える月だと思うので、いろんなバージョンで再演できればいいのにと、自分を励ましている。
台本は、この秋10月に発行される『にちなん文化』に投稿しているので、ご笑覧いただき、批評を楽しみにしている。
ということで、趣味が高じた八月は終わり、定例議会の9月となる。
そこにただ一台のピアノがあるだけで、なぜか話しが膨らんでくる。そんなお芝居の稽古をやっている。
本番は、8月21日(日)午後2時開演の「フッペル平和祈念コンサート」の第二部の演劇である。
『フッペルの周辺』三森不二夫・著(平成19年11月11日・発刊)をもとに書き下ろされた創作台本を、日南町内の小学生・高校生・大人の有志が演じる。
舞台は、現在の日南小学校に統合される前の年、つまり3年前、2008年の夏休みの暑いあつい日。
日野上小学校の体育館では、フッペルピアノの歴史80年を、上演時間30分で表現しようと先生や子どもたちや同窓生が集まり、静かに熱く語り合っている。
それぞれに生きている八月の午後。一台のピアノから聞こえてきた音の階に生かされるとはどういうことかを考えるショートドラマ。
星野ヒカル子・作
増原聡・日南町長のブログでも紹介されているフッペルピアノは、八月に生かされる。
いま、このピアノは、鳥取市に出かけて活躍しているみたいだ。→http://i.jcp-torishigidan.net/?p=907