池田亀鑑の誕生日なので

きょうは、『源氏物語』研究者の池田亀鑑の誕生日。

池田亀鑑は、1896年(明治29年)12月9日に鳥取県日野郡日南町神戸上で生まれた。

今年は、東日本大震災で宮沢賢治のことがいろいろ取り上げられたけれど、彼も同い年だったことは、これまでなんとも気づかなかった。賢治は、昭和8年の三陸大津波の年に夭折している。

わたしの家からすぐ近くなので、雪の「池田亀鑑文学碑」に向かう。池田亀鑑は生前ふるさとについての思いを述べていられるが、「花を折る」から紹介する。

池田亀鑑 随筆集「花を折る」(中央公論社刊・昭和三十四年)より

私のふるさと

岡山驛を出た伯備線の列車が、高梁川に沿うて北上し、中國山脈をこえて鳥取縣にはいつて最初の驛、そこでおりて、また小さな谷川を一里ばかりさかのぼると、三方山にかこまれた小さな部落がある。そこは、わたくしの生涯わすれることのできない、なつかしいふるさとである。この平和な谷間には、西日がおちてから、長い薄明のたそがれがつづいた。濃い紫、深い青、その夕靄の中に、少年たちのたのしい夢があつた。山には早くから雪がくる。爐のほとりで、吹雪の夜の行きだふれの話や、雪女の話しをきいた。正月備中からやつてくる獅子舞のグロテスクな恰好が、たまらなく郷愁をさそふ。「娘も先月嫁入り申し候、取入れも相すみ、これより當分冬ごもりに候」と昔なじみの友だちから便りがあつた。今夜はあの平和な谷間には粉雪がしんしんとまつてゐるであらうか、それとも青い星が一つ、お伽話のやうに、きらきらとまたたいてゐるであらうか。

(BK放送二五・十二)( BK・二六・一)

谷間の正月

わたくしは中國山脈の中の小さな部落で大きくなつた。その村は、日野川の一支流が、備中と伯耆との國境を發して、細い谷川をなしてゐる山の中であつた。神代の昔、ヤマタのオロチが住んでゐたといふところも、そう遠くはない。三方に山があつて、朝日はおそくのぼり、夕日は早くおちて、谷間には薄明の時間が長い。紫色に淀む靄の中に點々と明滅する灯は、わたくしの思い出を美しいものにしてくれる。

何しろ、郵便屋さんが、二里半ばかり離れた町から、峠をこえてやつてくる、それでも大雪でもふると、三日位はすがたを見せない、といつた山奥なので、わたくしたちは、谷間だけの生活を築き、そこに生きる意味を見出すよりほかはない。

さういふ谷間の正月は、わたくしにとつては、一つの藝術であり、そして哲學である。わたくしは、その中に少年の日の詩心をやしなひ、正義や倫理の芽生えをつちかつてきた。

この文学碑のことについては、「もっと知りたい池田亀鑑と源氏物語第一集」に詳しい。

池田亀鑑文学碑が建つ旧石見東小学校は、老朽化のため解体されることになっており、過日、不用品市も行われた。

6年生教室には、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』が掲示してあったが、それは、私が小学校6年生のときのままであったのがうれしかった。

体育館の肋木(ろくぼく)は、その昔むかし、うちのおじいさんが大工仕事で作ったとか…。